ジェイムズ聖地へ行く

監督メッセージ
     
何年か前、わたしの知り合いで、とうの昔に期限が切れている観光ビザでイスラエルに暮らしていたジェイムズというナイジェリア人がいた。
ジェイムズはたしか40歳くらいだった。彼の職業は銀行員だったが、ナイジェリアの政治や経済事情から、現在はテルアビブに住んで人の家の掃除をしている。ジェイムズとはよく、不法移民としての苦労や不安、悲しみ、そして彼の故郷、ナイジェリアの思い出、さらにいつかカナダへ渡るのが一生の夢などという彼の身の上話について語り合ったりした。
ある日、ジェイムズは私がはっとするようなことを言った。彼がまだこの国に来て住む前、この国にどんなイメージを抱いていたかという事の描写だった。それは、聖書に書いてあるそのままの、緑が広がる豊な大地、ミルクとハニーがふんだんな聖地、そんな国を思い描いていたという。
この国には世界でも最も平和でハッピーな人々、「神に選ばれた」最も美徳のある人々が暮らしているものと思っていたのだった。彼は笑みを浮かべ、「飛行機を降りて空港に立ったその瞬間、甘い空気が漂ってきたのを感じた。やっとずっと夢見ていた聖地にこうしてたどり着いたと思ったら感無量で涙がでてきて止まらなかった。」と話してくれたのだった。
その彼の言葉を聞いた時、私はすぐに映画の冒頭シーンを頭に描いていた。まだその映画のストーリーがどんな展開をするかなど考えずに。私の街、最も腐敗しているその街でトイレや台所を掃除して生計を立てている男が語ったその話に、私は矛盾と皮肉を強く感じた。それがきっかけでこの現代版、現実を反映した経済的な見地からみたおとぎ話の映画、「ジェイムズ聖地へ行く」という物語を書こうと思い立ったのだ。(原題:James's Journey To Jerusalem)
この映画で最初に考えた事は、世界中の人々の心の中に存在するスピリチャルなよりどころである抽象的な意味の聖地と、近代的な経済、交通渋滞、ショッピング街、移民法、移民達の搾取といった急成長した国、ありきたりな存在であるイスラエルとのあいだの、根底にある大きな矛盾だった。
たとえば、考えうるもっとも遠い地の果てからイスラエルにやってきた巡礼者の男がいたらどうだろう、ということを私は思い描いてみた。この男は聖書に記述されている「聖地」しか知らない。ところが彼が到着した時、役所の手違いで彼のこの世の楽園に観光客としてのプランは忘れさせられる羽目になってしまう。観光どころか、移民の日雇い労働者という厳しい状況に追いやられてしまうのだ。私はこれを旅路の出発点にしようと思った。それは、私が今日感じている事と同じようにジェイムズがイスラエル社会を観察する事になる旅路のこと。この物語に描かれている内容は純粋なイスラエル的な観点にたっているが、フィクションである素朴でウブなジェイムズの視点から見たイスラエルも、実際のイスラエルに通用するし、西側の世界の各地でもやはり通用すると思う。
これは私個人の意見だけれど、シネマにおいて最も偉大なことのひとつは自分以外の誰かの目から見た世界を見ることができる事だと思う。そのことをもっと突き詰めてゆくとシネマはもっと感動的なものになり得ると思う。他の誰かの目を通して自分のイメージを描く事ができるのだから。
「ジェイムズ聖地へ行く」は、特に経済的なファクターとあらゆる社会的な行いとが強力に絡み合っている私の社会に対する感情を反映している。
この映画は、夢を持っていた人間が現実に追われて、何がおこっているかもわからずにその夢を実現する気持ちを失ってしまったという物語でもある。言ってみれば、誰にでもジェイムズ的な部分が少しはあるのではないだろうか。人間として、社会人として、私たちは高尚な夢をあれこれ語りはするが、それを簡単に忘れてしまいがちという事もよく知っている。
私たちは誰でも「エルサレム」と崇める何かを持っていると思う。それにたどり着くか否か、またそちらに向かって進んでいっているのかというのはまた別の問題なのだが。

監督 ラアナン・アレクサンドロヴィッチ